ボート部監督の傘寿を祝う会

 大学のボート部でお世話になった四方監督の傘寿を祝う集いがあり、瀬田川のほとりの料理屋に20人余り集まった。現役時代直接教わったものばかりでみんな60歳から65歳まで、ほとんどが昔の筋肉隆々の体形から程遠く太っちょで髪もバーコード、ツルツル、ゴマシオなど40年の歳月はじつに冷酷だと思った。しかし、みんな学生時代に戻って実に愉快だった。四方監督は風貌は昔とほとんど変わらず今も毎日のようにスイミングスクールで若い女性(60歳以上?)とともに千m以上泳いでおられる由、僕のボート生活で一番お世話になりご指導をいただいた人であっただけに父親に会ったようで嬉しかった。
 僕が受験に失敗し失意の状態で同志社大学に入ってまず決めたことはとにかくスポーツに熱中して自信を持てる人間になるんだということだったからあこがれのボート部に誘われて期待に胸を膨らましていた。ところが、なかに入ったら当時の同志社ボートは弱い弱い、しかも石山や瀬田のいろんなお店に借金だらけで胸をはって歩けない状態だった。そこに四方先輩が監督として乗り込んでこられゼロから再出発となったのである。そのため僕は3年のとき選手を下ろされ主務として財政再建や優秀な高校生を全国からスカウトする仕事、そしてジュニアエイトの養成などをまかされた。4年になったらぼくが主将,30人ほどの部員の心をひとつにすることがむずかしくなんどもなんども四方監督を訪ねて教えを請うたものだ。おかげで僕達の同志社エイトクルーは京大を破って関西選手権で勝った。それから後輩が全日本選手権で3位,2位,優勝、優勝とがんばってくれメキシコオリンピック出場と同志社大学ボート部の黄金時代を築いてくれた。僕が現役のとき全日本選手権大会にでても毎年1回戦敗退、敗者復活戦も敗退というのが同志社クルーの成績だっただけに信じられない気持ちだった。「やればできる。」ぼくらの夢を実現させてくれた監督が四方先輩であった。僕も同志社でボートをやってほんとに良かったと思っている。キャプテンを経験したあの頃の苦労を思えば社会にでて経験したことなどちっとも苦しいとは思わない。四方さんにはほんとに感謝している。長生きして欲しい。