映画「硫黄島からの手紙」を観て

先日話題の「硫黄島からの手紙」という映画(クリント・イーストウッド監督)を観た。かつて敵国であったアメリカが作った映画ではあるが割合と公平に描かれているように思えた。

 それにしても、戦争はなんとむごいことをするものか、なんと命が粗末に扱われるものか。敵見方、互いに国の存亡をかけて戦っているのだが、それぞれ皆親あり、妻あり、子供がいる。一人の兵士が命を落とすと何人の人を不幸にするだろう。物量ともに圧倒的優位な米軍に勝てる訳がないのに最後の一人になるまで粘り強く戦った日本軍、敵に捕虜になるのは恥ずべきことだと教えられたが故に手りゅう弾を己が体にたたきつけ次々と洞窟の中で自爆していく兵士の修羅場を見て涙が止まらなかった。

 あの硫黄島における日本軍の粘りによって多くの犠牲を強いられたアメリカは、日本の強さが骨身にしみた、それが「日本を再びアメリカの脅威となるような存在にしてはならない」というあの徹底した占領政策に大きな影響を及ぼすことになった、と…なにかの本で読んだことがあった。

絵画 敗戦直後NHKの「真相はこうだ。」という番組でアメリカが作った「太平洋戦争史」をこれでもかこれでもかとばかり日本の敗戦と日本軍の愚かしさ放送した。そして、占領軍は日本人に原罪ともいうべき罪悪感を植え付け、一方的に日本だけを悪者に仕立て上げた。占領下の六年半の間、マッカーサは絶対的な権力を行使し、マスコミの検閲・国際法違反の東京裁判・日本国憲法の制定・教育制度の改革など日本の過去をすべて否定する政策をとった。悲しいことに、この占領政策のせいで日本の教育は、まず民族とか国家というものを消滅させてしまった。アメリカの原爆投下やロシアのシベリア抑留に対しても何も言えず、日本が間違った戦争をしたんだからとだれもが思っている。日本人としての誇りや自信もなくしてしまった。ご先祖に感謝、親を大切にという徳目もなくなった。 その結果、敗戦のときまで祖国のために命を捧げるべきだと教えられた世代は、社会に出て祖国の代用として企業に忠誠を誓うこととなった。会社を守るため、金儲けのため一生懸命働いた。モーレツ社員という言葉も生まれた。

 ところが、戦後教育を受けた次の世代は、基本的人権だ、自由主義だ、民主主義だと教えられ、家族や地域社会、国家などへの帰属意識を教えられなかった、いわゆる新人類である。戦前の国家主義から占領政策によって極端な個人主義にブレてしまった。彼らは自分のためにしか働かない。友人との食事や恋人との約束は課長の残業命令に優先する。 

 そしていま、彼らが自分の子供を育てる立場になっているのである。子供を育てるべき倫理的基盤を失った状態のなかで子育てが行われていると言っても過言ではない。「人を殺したらなぜいないの?」「援助交際がなぜ悪いの?」と子供たちに言われてビシッと答えられる大人がいなくなっている。家族の絆・地域社会の連帯・国を思う気持ちが緩んでしまうと家族・地域・学校どこも皆教育力もなえてくるのだ。愛情に飢えた子供、勉強はできても規範意識のない子供が多くなっている。しかも貧しさを体験したことのない子供には豊かさの実感や感激もないし、逆境を経験したことのない子供には「ナニクソッ」という強さも備わらない。

 以上のように、いまの日本の世相は、六十年前の敗戦とアメリカの占領政策に大きな影響を受けていることをもっと深刻に受け止めるべきだ。

 私も二度と戦争をしてはならないと思うし、戦前の日本が犯した負の部分も深く反省しなければならないと自覚している。しかし「歴史に恥ずべき部分があるのは、どの人間もどの国も同じです。そんな部分ばかりを思い出しうなだれていては、未来を拓く力は湧いてきません。」と藤原正彦先生(お茶の水女子大学教授)もおっしゃっているように、祖国への誇りや自信を持たせるような教育がいま求められているのだ。

 私たちの先輩が築いてくれた歴史・伝統・文化などに思いをはせ、六十年前に失ったいいものをもう一度取り戻す努力をしなければならない。二十一歳の兄が二十歳の妹を殺し遺体を切り刻むなどというニュースを聞くとこの国はまさに滅び行かんとしているような感じさえする。教育基本法が改正されたことを、足がかりに、国民一丸となって国家の再生と取り組む、その態勢つくりに私も加わらせて欲しいと思う。「若い命を国家に捧げられた先輩方に対し、今に生きる者としてなにもしなかったら申し訳が立たないではないか。」そんな気持ちが湧いて来た映画だった。

森岡正宏(平成19年1月 記)