母の思い出

昨年暮れに風邪をひいてひどい咳が出て困ったが、いまだにその咳が時々出るので心配になって病院へ行った。朝9時に行ったが駐車場も車がいっぱい、大きな病院の吹き抜けになった待合室が人人人であふれている。ほとんどが高齢者、車椅子を押してもらっているお年寄りもいる。久しぶりにみる病院の風景に驚いた。

CTを撮ってもらって診ていただいたが、異状ないと言われホッとした。

振り返れば、母は平成13年にこの病院で80歳の人生を終えた。末期癌(すい臓がん)の宣告、余命6か月と言われたとき私は心臓が凍り付く思いであったが、本人には言えなかった。転院したりいろいろ手を尽くしてもらったが、奇跡は起こらず闘病生活8か月で亡くなった。息をひきとる2週間前であったと思うが、お医者さんから「これ以上治療をしても治る見込みはありません。ご本人に癌の告知をしたほうがいいのではないでしょうか。患者さんが最後に言っておきたいことがあるかもしれません。私から話しましょう。」と言ってくださった。弟と二人立ち会ってお医者さんから話されたその時の母の姿と言葉が耳にこびりついている。やせ衰えた寝間着姿の母が「わかりました。十分なことをしていただきありがとうございました。」と気丈に答えたとき私はどっと涙があふれてきた。昨日のことのように思い出す。

私たちが子供の時母は娘時代にしたことも無い畑仕事に精を出しよく働く人であった。父は身体が弱く入院や治療を繰り返す日々、母の姿を見かねて弟と二人で家事や畑仕事も手伝った。茶刈りハサミで刈り取った茶葉を汗だくになって大きな篭に詰めて運ぶ母の姿を思い出す。小学校時代は、大きくなったら母を楽にさせてあげたいというのが私の願いであった。

私が選挙に出るというので、ゲートボール場で「息子を頼みます」と頭を下げて回ってくれていた話や、大きな集会があるとそっと柱の陰から私の姿を見ていた母の不安げな目などを思い出す。当選してテレビに写る予算委員会などの私の姿を病室で食い入るように見ていたという。人さまから見たら欠点もあっただろうが、私にはかけがえのない世界一の母であった。そう思いながらも照れくさいからか母にあまり優しい言葉をかけてやれなかったことが悔やまれる。ダメな息子であった。

父と死別後9年間母は都祁の家で一人暮らしだった。冬は相当寒い、寂しいともいわず家を守るためによく頑張ってくれていたと感謝の気持ちでいっぱいだ。