マスコミの論調と裁判

 事件から13年かかって光市母子殺害事件にピリオドが打たれた。当時18歳の少年に妻と幼い長女を殺された夫の本村洋さんの叫びが、国を動かし、裁判結果をも変えさせた。死刑判決が出た後で本村さんが「勝者なんていない。事件が起こった時点でみんなが敗者なんだ。(死刑判決に)嬉しいとか喜びはない。厳粛な気持ちで受け止めなければならない」と淡々と語っている姿を見て熱くなった。
 
 事件直後「どんなことをしてもこの恨みを晴らしてやりたい」と語り、犯罪被害者を蚊帳の外に置く刑事司法の不条理を訴え続けたその執念と努力は大変なものだったろう。その声が世論を作り、国を動かし、被害者の法廷での意見陳述を可能にした。この事件が少年犯罪を保護主義から厳罰主義に変えつつあるといわれている。そして、平成16年には「犯罪被害者等基本法」も成立した。本村さんのパワーは凄い。
 他方、平成15年大和郡山市で起こった警察官が逃走車に発砲して助手席にいた人を死亡させた事件の判決が2月28日奈良地裁で言い渡される予定で大変注目されている。殺人と特別公務員暴行陵虐致死の罪で訴えられた二人の警察官に「職務を逸脱する発砲行為だった」と主張する検察側と「市民を守るための正当な発砲だった」とする弁護側が真っ向から対立しているのだ。
 
 上記の二つは同じ殺人事件でも、全く性格が違う。だけどマスコミの論調は大和郡山市の事件についても「殺された方はかわいそう、警察官がやりすぎだ」というような傾向が強いようだ。どちらかに味方をするような気持ちはさらさらないが、逃走車が他の車両に激突するなどの暴走を繰り返していたからこそ警察官が発砲したのであってこれを職務逸脱とか殺人罪で有罪とされるようなら法治国家といえない。
 
 私はかつて衆議院法務委員会で理事を務めていたとき、例の裁判員制度導入の審議をした。質問にも立ったし、与党の立場であったからもちろん賛成したのであるが、機能しつつある今も果たして素人が裁判官の一員として加わることが良いのかどうか頭の中の整理ができないでいる。マスコミが作り出す論調にもいろいろあって、裁判が歪められるおそれはないのか?