生前葬の勧め

 最近読んだ本の中に「葬式は、要らない」(島田裕巳著)があり、私の葬式や仏教に対する考え方がずいぶん変わった。白洲二郎の「葬式不要、戒名不要」は有名な話であるが、「日本の葬式にかける費用が世界の中でずば抜けて高く、平均で231万円。戒名は日本仏教に独自の制度で、釈迦の教えにもとづいておらず、また仏典に根拠が示されているわけではない。死後の勲章として院殿号などりっぱな戒名を付けることが葬式の費用を高くし結局坊さんを儲けさせていることにつながっている。日本の仏教が葬式仏教と呼ばれる所以である。」などと書かれている。イギリスで教育を受けた合理主義的な白洲二郎の行動が理解できる。だけど日本のお寺が檀家制度によって維持され、それぞれの家の先祖供養が根付いているのも確かである。家単位でりっぱな墓をつくり3回忌・7回忌・13回忌などと続き、50回忌・100回忌の法要を営んだりしている。最近、核家族化や少子化によって檀家制度が揺らいで来ているといわれているが、確かに、高いおかねを払って戒名を付けてもらったり、墓地を買ったりすることにどれほどの意味があるのか、おかねの高い安いの問題ではないと思う。

 先月訪れたブータン仏教は日本の仏教とずいぶん違ってた。ブータンでは人が亡くなると葬式は火葬、そして骨は川に流す。墓はない。亡くなって1年間は旗を立てて死を悼むが、何回忌などという儀式はない。人は死んだらまた別の動物に生まれ変わって活動しているのだから何年も法要する必要はないというのだ。また、ブータンの僧侶は社会的に地位も高く僧院で俗界とはかけ離れた生活をしており、もちろん妻帯は許されない、ブータンでは仏教が一般の人々の生活に深く溶け込み精神的な支えや教育的な役割を果たしている。反対に日本では仏教というと死後の世界のためにあるようだ。南都仏教は別として、素人がえらそうなことをいうなと檀家寺のお坊さんから叱られそうだが、宗教とは本来人間がどう生きるべきかを説いていくのが役割であって死後のことばかりいうのは間違っているのではないか?

 わたしは、突発的な事故などで死なない限り、隠居の身になる頃(本人はまだまだ先のことと思ってます)、親しい人やお世話になった人に来てもらってにぎやかで明るい「生前葬」をやりたいと思う。感謝の言葉も言いたいし生きてるうちにみんなの声を聞いて死ぬほうがいい。死んでからお悔やみ言ってもらっても本人わからなかったらつまらない。そして、ほんとに死んだときは家族葬で十分、戒名も要らない。