世相を斬る 2008年6月14日

 親の子殺し・子の親殺しなど最近の家庭内の凶悪事件の続発には目を覆いたくなります。昨年一年間に検挙された殺人事件(未遂も含む)1052件のうち家族・親族間の事件が503件で約半分を占めているということ皆様ご存知でしょうか?家庭内殺人事件の頻発は戦後日本社会の異常性を象徴しています。

 また一方で、不安や不満、孤独感が渦巻き「誰でも良かった。」という通り魔事件や無差別殺傷事件が多発しています。これも異常事態であります。

 もう一つ、少し古い統計数字でありますが、東京都内の高校3年女子のセックスの経験、平成14年45.6%、12年前(平成2年17.1%)の約2.7倍、同様に中学3年女子の初交経験9.1%で12年前(平成2年3.4%)と比べてこれも約2.7倍。また平成12年の数字でありますが、全国の未婚女性の性交経験率(毎日新聞社の調査でありますが)20歳から24歳まで54.3%、25歳から29歳まで67.3%という数字がでています。この性道徳の乱れ、家庭観の破壊をかねてより心配していますが、わたしのような考え方は古くてもう通用しないのでしょうか。

 どうしてこのような社会になったのか私なりに考えてみました。四点指摘させていただき、ご批判を仰ぎたいと思います。

 その一は、戦後の誤った教育であります。教育基本法の前文に「個人の尊厳を重んじ」とあり、また条文の中にも「個人の価値を尊び」と言う言葉が入っています。一昨年60年目にしてようやく改正され「公共の精神を尊び」という言葉も入りました。戦前の教育勅語では「これ我が国体の精華にして教育の淵源また実にここに存す」と、国体の尊厳がうたわれたり「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」と公が強調されても個という字はどこにも見当たりません。日本を「二度と立ち上がってアメリカに歯向かえない」国にしてやろうという占領軍は、平和憲法と教育基本法をつくり公から個への転換こそ日本を弱体化させる鍵とみたのであります。慧眼というべきか、今の日本はその狙いどおりとなりました。個と公どちらも重要であることはいうまでもないことですが、戦前は公が幅をきかせていたのが、戦後は公が忘れられ個が勢いを増し個人主義どころか利己主義がのさばるようになりました。親と子、先生と生徒が対等となったことから公立学校から教壇はほとんどなくなり宿題をしていかなくとも罰を与えられないし親や教師に敬語を用いないどころか暴言を吐き暴力をふるう生徒を抑えることもできない状況が生まれています。子供中心主義や子供へのおもねり、厳しく育てることを怠ってきたことへの反省が私たち大人にもないように思います。「個の尊重」は「自由・平等・人権」などと一緒になって広く社会で猛威をふるっています。「わがまま」「したい放題」という言葉がピッタリの世の中になっています。そして、個の対極にある公すなわち国家・社会・家庭は個人を抑圧するものとして否定されてきたのであります。私も二人の子供の親でありますが、失敗作品を作ったように思います。「結婚を考えたらどうだ。」というと「わたしの人生なんだからお父さんもお母さんもかまわないでよ。」と言われてしまいます。私の子供だけでなく、親に感謝の気持ちを持てない子、地域や国に愛着や愛情を持てない、または無関心な人が多くなっています。

 二つ目は、戦後60年の間、経済至上主義がはびこりすぎたように思います。廃墟の中から立ち上がって一生懸命働いてくださった先輩のおかげで今日の経済発展をとげることができた、これはその通りでありますが余りにも金銭万能主義、カネ・カネ・カネと金儲け主義がすぎたように思います。子供たちにも善悪の価値観より損得の価値観を優先させるような教育をやってきた、そのことが援助交際や偽装事件の伏線になっているのではないでしょうか。

 三つ目は、IT化であります。携帯電話やパソコンが犯罪と結びついている事件が実に多くなっており、子供の非行に手を貸している一面があることは誰しも認めるところでありましょう。子供に携帯電話を持たせるべきか否か、またフィルタリングなどの規制をかけるべきか否かが政府でも議論されていますが、携帯電話やパソコンから入る情報、電話やメールのやりとりによって子供も大人も犯罪に引き込まれやすくなっています。先日ごく普通の中学生の女の子に「一日に携帯電話どれくらい使う?」と聞きましたら、1時間から多い日は三時間という答えが返ってきてビックリしました。友達と会って話しをするのではなく、ショートメールのやりとりでコミュニケーションをはかっている子供が多い訳です。また出会い系サイトなどにアクセスして見ず知らずの異性と付き合い性犯罪などに引き込まれるケースも多発しています。先日テレビを見ていますと、子供にケータイを持たせるなとかフィルタリングをかけるとか国家が関与する問題ではないと発言していた元閣僚がいました。わたしはこれだけ大きな問題になっている訳ですから国が方向性を示すべきだと考えます。国家権力で押さえつけようと言うのではありません。わたくしも何度か政治家として言論界やマスコミのひとたちと議論してまいりましたが、すぐ憲法で保障されている「知る権利」とか「表現の自由」を盾に、有害な情報を規制することに反対され平行線でした。しかし、フィンランドの憲法には「表現の自由」を保障しながらも「子供たちに悪い影響を与える情報を規制するために法律を作ることができる。」という但し書きがあるということ、これなど日本も見習うべきだと考えます。

 もう一点、雇用不安を原因の一つにあげたいと思います。あの秋葉原の通り魔事件の犯人は派遣労働者で、派遣先から突然「もう来なくていいよ。」と言われ自暴自棄に陥ったそうです。小泉改革以来労働者の派遣を大幅に緩和した結果、日本の雇用環境はすっかりアメリカ型になってしまいました。被正規雇用者が3分の1を占め年収2百万円以下の労働者が1千万人を超える現実は、特に若者を夢や希望から遠ざけており日本の活力をそいでしまう結果になっているのです。小泉改革とは一体なんだったのか、改革と言う言葉に踊らされるのではなくその功罪をしっかりと検証し対策をたてるべきだと存じます。

(平成20年6月14日 記)